2016年03月16日

コーチえのもと〜一本の最高級ラケット〜

コーチえのもとのラケットは当時の最高級品だった。

ヴォクは先輩からのもらいものがなかった。吹奏楽部からの移籍組で遅れ組だったのでおこぼれがなかった。
はじめは部の余りを借りてすましたがグリップもはずれいよいよ限界。ヨネックスのレックスキングソフト17を買った。

エースナンバーに近い数字の17という数字が好きだったのと、あまり高くないのでというくらいの理由だったか。理由などないといえばそれでよろしい。

部員には鯨でできた高級ガット、「ゲイキン」を使うものもいた。
ゲイキンは雨に濡れると切れるので手入れが大変だし本当に切れやすくお金がかかるので一番手の選手以外は手を出さなかった。

コーチえのもとはテニスはうまくなかったがラケットとガットは最高級だった。
それは平均的なものの3倍もした。木の一本シャフトでヴォクのものの5倍の値がした。
ギターと比べたらピンとキリの差が小さいがそれでも業界の最高級品。
コーチえのもとのラケットを運ぶときはうんと気をつかったものだ。

ある日、ある一人の部員がぼーっとつったって声も出さずボールを打っているときだったろうか急にコーチえのもとは彼を呼び出してその高級ラケットで彼をケツバットした。
ぼくらは唖然とした。
ケツバットにではない。
そういうのはいつものことでありがたいことだった。
そのときぼくらが驚いたのはコーチえのもとが高級ラケットを手にしたまま思い切り彼のケツをラケットのボールを打つ面で叩いたときに、ラケットが真っ二つに折れ曲がってしまったからだった。
ラケットはコーチえのもとの手からひゅるりと抜けコート脇にくの字になって飛んで行った。

「あ、高級ラケットが・・・」コーチえのもとの顔をぼくらは見た。
コーチえのもとはラケットには目もくれずさきほどの部員をどなりつけている。

その日の練習後の訓話では折れたラケットの話は出てこなかった。
でもいつも以上に背筋を伸ばしたぼくらの身に、彼の言葉がよくしみた。
帰り道、ぼくらのお尻は最高級にいたかった。
posted by 花波 ヒカリ at 05:55| コーチ・えのもと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月20日

コーチ・えのもと(15)

子どもが先生を見つめている。
じっと見つめてる。

ときおり子どもたちは、はい、と声を揃えて返事をしている。
壁から半分顔を出して覗くものがいても、
カラスがかあかあ猫がにゃあにゃあとないても、

子どもが先生を見つめている。
先生は何かを話してる。
手振り身振りで何かを伝えている。

それはまるで耳元でささやいているような、
それはまるで糸電話でなにかの意図を伝えているような。

子どもの顔は20度くらい仰いだ先の先生の顔を向いたきりだ。
動かずに。

いや先生の動きに合わせて首と目だけが動いてる。
両の手先はピンと気をつけいをしたまま。

じっと耳をすましている。
あー、コーチえのもとがここにいるよ。

あわててヴォクも夢の中のコーチえのもとに耳をすます。


浅山はテニスが下手や。
浅山には才能がない。
でも朝、コートにきてひとりで練習しとる。

いちばん早くきて練習しとる。
うまくなってる。
フォームが固まってきとる。

浅山は一軍の3番手になろうと必死や。
浅山はうまくなってきとる。
練習のプロや。
練習ではうまい。

いーか、おまえたちは浅山になれ。
浅山の練習をみろ。
浅山はいちばんにきて壁打ちをしとる。

きこえてきた。
ありがとう、ありがとう。
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コーチえのもと(15-1)
コーチえのもとは練習後にいつも話をしてくれた。
あんなに長々と毎日話したいことがよくあるものだなと今になって思う。
家族が子どもに話すよりもひょっとしてもっとたくさんのいろんな話をしてくれたんだ。
逆にぼくらはコーチえのもとのことをほとんど何も知らなかった。
コーチえのもとは家族と過ごす時間をつぶしてぼくたちの練習を見ていてくれる、そのことが不思議でならなかった。
盆も正月もなかった。
ただ雨の日だけはコーチえのもとはコートにこなかった。
雨が好きになったのはあの頃からかもしれない。
あー、きょうは遊べると考えたものだった。

かつて全国大会に陸上で出場した卒塾生(現大学生)がヴォクに話してくれたことがあった。
「練習をがんばったのはコーチのためです」と。

ぼくたちもほとんど同じような気持ちだったかもしれない。
テニスをがんばることがテニスでないところで絶対に役立つ。
お前たちは今はテニスをやっちょっが、大人になったらテニスなんかせんやろう。
でもいまやってるテニスの中に将来勉強をして仕事をするときにつながっていくものがある。
30になったらわかるからとにかく誰よりも練習をしなさい。
一球に気持ちを入れなさい。
中途半端に打ったらいかん、俺は半端はひとっちゃすかん。
誰かが倒れるまで1セットの練習は回すから倒れるまでやれ、俺が水をかけて起こすから心配はいらん。

そして倒れるのはだいたいのところ、ヴォクだった。速さについていけずに足がからまってずっこけるだけで倒れるといっても気を失ったわけではなかった。

もともと吹奏楽部で運動はからきし苦手、運動会が何より嫌い、足も極めて遅かったヴォクは部員の中に男子が一人しかいなかったことになぜだかたえかねて仕方なしに三ヶ月遅れでテニス部に入部した。友達がいたからというただそれだけの理由だった。

「お願いします」と入部届けをもっていったときもコーチえのもとは何も言わずにただ用紙を受け取っただけだった。まさか鉛筆で名前を書いただけのあの紙切れ一枚がその後のヴォクの人生にここまでの影響をもたらすだなんて思いもしなかった。

その後部活引退まで直接お話をしたことというのは一度もなかった。
説教を聞きちょっとした返事をするくらいはあったけれど。

夏休みは太陽よりも長くぼくらはコートの上にいた。
太陽が出る前に家を出てボールが見えなくなったらコート整備をした。

太陽が基準の練習時間だったので物理的な限界まで練習をすることができた。できることは全部やったと思いながら帰る日々が続いた。
これが充実でなくて他のどこに充実があるのだろう、あーきょうはテニスを倒れるくらいやった。
コートにライトが整備されていなかったこと、体育館にコートがなかったことが練習に区切りをもたらした。

太陽の出ている決まった時間しか練習ができないということ、雨の日はコートが痛むので練習をすることは許されないということを知った。
限界があったので限界のところちょうどまでテニスをすることができた。

これは1日に終わりがあること、天気に従うしかないこと、制限の中でベストの練習をすることをぼくらに教えてくれたんだ。

ゲイキン(くじらのガット)はまた雨に弱かった。
雨が降るとボールははねにくくなる。いつもの練習は中止になった。
体育館の中でやると膝を痛めるので試合は野外で行うのが基本だった。

天気とは天の気分なのかもしれない。
でもその天の気分のおかげでぼくらは限界のところまではやるということの意味を知った。
恵まれた村の生活をしている中学生達にとって限界を教えてくれるものなど他になかった。

部活動と天気のおかげで、限られた時間いっぱい(そう、時間はいつだって限られている)は必死にやるという動きをぼくらは身につけた。






posted by 花波 ヒカリ at 08:32| コーチ・えのもと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月14日

コーチ・えのもと(14)

コーチえのもとの話ははじまった。
夜7:00くらいになってもう誰がコートに立っているのか見えなくなったら練習が終わる。

5分でコート整備を終え整列。ブラシとトンボが部員数の3倍くらい、鉄のローラーが3台もあったので整備がすいすい進む。
一日のトレーニングのしめのメニューとして、みんなテキパキやった。

「しゅーごーーー(主将)。」
整列。
礼。
「おねがいしまーす(全員大声で)。」

整列。立って気をつけして話を聞く。練習中はずっと大きな声を出しているが話を聞く時は返事の「はい」を大声でするとき以外、のどをつかわない。
心休まる至福の時だった。喉を休められる身体を動かさないでいられるからではない。
話がおもしろかったのだ。

練習試合の相手チームの声出しがよかった話。
部員の定期試験の結果の話。(テスト結果は全部員分コーチえのもとは知っていた。)
練習試合の相手コートがよく整備されていた話。
練習試合の相手チームの部員が休憩前にラケットとボールカゴを整然と整理してきれいに並べていた話。
練習試合の相手チームの監督から聞いた練習方法の話などもあった。
そういうことがつかみで?二分くらいあって残りはひとつのことを話してくれた。

いつもテニスのフォームの話をしてくれた。
フォームができたらいいボールが打てるようになるという話だった。
軸がぶれない。
面ができている。
点でなく面で拾う。
駒のような中心軸。
壁のような前軸。
優勝しなさいという話もたまに途中で出てきた。でもそれは当たり前のことだったので結果で完了形で語られた。優勝しなさいではなくて優勝したときのそれまでの練習について。いまのフォームについて。

フォームの話は長かった。
短いときで30分。長いときは60分くらいしてくれた。
かえりはだから8:00になる。
あんなにたくさん話すくせにぼくらはコーチえのもとに家族が何人いたのか、どこに住んでいたのかさえ聞いたこともなかった。盆と正月以外は毎日いっしょにいたのに彼のことをあまり知らなかった。こわくてだれひとりそういうことをあらためて聞こうという気にはならなかった。

コーチえのもとは自分の話を一切せずずっとフォームの作り方を話してくれた。
どうやったらテニスがうまくなるかの話をしてくれた。
だからはじめ個性的だったフォームのものも全員同じようなフォームの基本を身につけた。
やせふと、足の速さはなかなか変わらないがフォームなら大体基本的な部分がみな同じになった。
選手を見て真似をし、鏡を見てそれに近づいているかと確認し素振りをしてそのフォームが自分のものになるまで振り続ける。
すぶりは100回を1セットとしいつどんなボールが来ても同じスイングで返せるようにと心掛けた。
尊敬する元ニューヨークヤンキースの松井秀喜選手の『不動心』という書物を後日読んだときに、ああ、コーチえのもとがいっていたのはこのことだったかと思ったものだ。

テニスでは同じコーチにならう選手のフォームが同じような形になっていることは少なくない。コーチえのもとの指導はフォーム指導に関するものが多かった。

球をうまく拾えなくても怒られないが、フォームをくずした打ち方をしているとこっぴどくやられたもんだ。

同じようなフォームを身につけたぼくらはバラバラの高校へ散った。
高校の大会で勝ち上がると同じ中学のときの仲間と戦うことになった。
彼らはみんな同じようなフォームで打ち合って勝ったり負けたりした。
ぼくは高校でキャプテンをやりぼくの相方だった仲間も彼の高校でキャプテンをやった。へー、下手くそなお前がキャプテンかと馬鹿にされ、お前こそキャプテンか似合わないなと突っ込みを入れた。

試合の帰り、高校では自由に練習しているがどこか生ぬるくて調子が狂うと帰りの電車の中で話したりもした。
練習時間だけならコーチえのもとの練習も高校での練習もそこまで変わらなかっただろう。

でもコーチ・えのもとが見ていなかった。
もう何も言ってくれなかった。
だから物足りなかったんだ。

あのとき7:00から聞いたことを思い出しながらぼくらは各自の高校のコートの上でそれを実行しようとしていた。
中学生の頃はよくわからなかったが、耳にたこができるくらい同じようなフォームの話ばかり聞かされていてよかったと何度思ったことか。

いや、いまでも感謝している。
耳にこびりついてて離れない声とその言葉に。

暗くなると、コーチえのもとの声が聞こえてくる。流れてくる。

「インパクトの時以外は力を抜け。力で打つんじゃない。重力と遠心力だけでいい。」

物理学のことはとんとわからなかったがとにかくぼくらはタコのように力を抜いた。
たまに力んでいるとコーチえのもとが後ろからラケットを引き抜いた。
「力を入れんな!」
すごく強い力だった。

「腰を落とせ。重心を低くせー。」
リラックスしながらかつ腰を落とす理由がとんとわからなかったがぼくらはとにかく重心を低くした。ゴルフのようにでなく地面と水平にラケットを回した。

「手打ちをするな。腕は振り回すな。」
ぼくはラケットをぐるぐるぶん回したくてテニス部に入ったのに腕を振るなとはないでぃお?と思ったがぼくらはみな代わりに腰を回して手は固定した。



















ずっとフォームの技術的な話だったのでてっきりフォーム指導を受けているのだとばかり思っていた。
でもいま思えば違った。

フォームを考えるようでいて、ひとつの身体の動きが身につくまで何球も何球も繰り返すということをコーチえのもとはぼくらに伝えたかっただけだったんだ。
そもそも彼はテニスの初心者で正しいフォームがどういうものかわかっていなかったはずだった。
それなのにどうしてうまくなるのかと考えるとそれは少しだけ多く意識的に考えるようにし、少しだけもっと多く考え型をイメージしながら素振りをするようになり、少しだけ多く球を打ち、少しだけ余計に身体がクタクタになっていたからだ。

いい球が行くのは疲れはてて身体に力が入らなくなるころだった。
フォームのことを何時の間にか忘れ、練習なんかはやくやめて水が飲みたい、水が飲みたい、身体を休めたい、動きをとめたい、と考えるような周回数になる頃、不思議とポンといい球が走った。

省エネで無駄のない、駒のようなフォームが向こうの方からぼくたちに現れた。
打った自分が驚くようなボールがポンと行った。
posted by 花波 ヒカリ at 05:48| コーチ・えのもと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月03日

コーチ・えのもと(13)

コーチえのもとはぼくらのコーチになる前年まで、前任の中学で卓球部を担当し県内優勝常連に導いていた。
テニスには関係ないが彼は昼間は中学教師で、大学では物理と数学をし中学では数学を教えてた。

コーチえのもとがフォーム指導にこだわっていたのは練習終了後や練習の合間のことで、練習中はスピードある動きのことをぼくらに教えてくれた。速くするというのが本当はどういうことなのかを教えてくれた。

卓球で習得した練習法なのかは知らんが球出しの速度が速かった。
たとえばぼくにボレーの練習をさせるときは1秒に1、2本くらいずつの高速で100本連打で叩きつけてくる。
それが2mくらいの至近距離からのほぼ全力ではじめてその100連打をくらったときぼくのメガネが鼻を打ち付けメガネはずり落ちボールへの恐怖感とえのもとへの恐怖感が生まれた。

この人はどうして実戦でありえないようなペースでボールを出してくるのだろう。
それにコートはこんなに広いというのにどうして卓球みたいに近い距離でばかり球出しをするのだろう。
卓球が得意だから卓球方式と来たもんだ。ちくしょー。汗と涙で目がよく見えないや。
せめてメガネを戻したいなぁ。

そんなことを思いながらノック終了後にコートに落ちたメガネをひろって直したりした。

右回りに四人がくるくるくるくる回りながらレシーブをしてボレーをしてスマッシュをする定番の練習では一周が5秒くらいだったろうか。
それが20周、30周、40周と続き息が上がり足が動かなくなり途中滑ったりずっこけたりする。レシーブしながらボールをさばきながら前に出てボレーをし後ろに下がりスマッシュをしレシーブのポジションに戻ってレシーブをとくるくる目が回る。
フォームなんか考える余裕などなく楽をして、動く距離を小さくすることや近道をすること、ラケットを振り回さずコンパクトに動いて自分が倒れないことを心がけた。
うまくなるためにやっているはずの練習だが倒れないようにするという自己防衛本能が明らかに上回った。
コーチえのもとは声を出さんかー、下がらんかー、走らんかーなどと叫びながら球出しの手を休めることなくぼくらをくるくると回し続けた。
誰かが倒れるまでペースをどんどん上げた。
一軍で一番やせのもやしだったぼくがだいたいはじめに倒れるとメニューが終わった。
倒れるとボールを5球ほど身体に打ち付けられた。(ボールがやわらかいのでいたくもかゆくもない。)
なんとありがたい励ましか!
息ができる喜びとあいまっていたくもかゆくもないぞ。

大学生以降、東京ばななの夜間工場、京タコを焼くこと、DMの封詰めなど回転系の仕事も運良くいくつか経験したがコーチえのもとの流れ練習に比べたら楽だったかもしれない。なにより倒れなくてすむのがよかった。

「身体がきつくなったらチャンスだと思え。
そのときのフォームを身体に覚えさせろ。
無駄な力の入ってない楽なフォームだ。
それが身体にあったお前のフォームだ。」

「いいか、どんなフォームにも基本というもんがある。
いいフォームで打てば体勢を崩されたときでもへんなボールがいかない。
いいフォームで打てば何球叩いてもネットに掛かりにくくてラインから出にくい。
いい選手はいいフォームを身につけておる。落合博満のフォームと○○(いちばん下のCチームの部員の名前)のフォームの共通点がわかるか。」

「足にも不定形のフォームがある。
常に左右に揺れなさい。
両足を右左交互に小さくステップして右にも左にもすぐにいごけるようにしなさい。
とまった状態から人は急にいごかない。
いつもいごけ(※多分、「動け」のこと)。
かるく左右にいごいていたら右のボールにも左のボールにもすぐに対応できる。きまった形がないのもフォームのひとつだ。」


暗闇のベンチの上から聞こえてくる。流れてくる。

posted by 花波 ヒカリ at 05:55| コーチ・えのもと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月25日

えのもと監督(1)

えのもと監督はテニスの試合ができなかった。ご高齢で足が動かないこともあったがそもそもテニスの初心者だった。

ぼくらが九州大会や国の大会に出るくらいになると監督はひとりだけ人を連れてきた。

うまくなった数人だけが、えのもと監督が連れてきたそのコーチを相手に乱打をすることができた。乱打は文字通り乱打であってネットにもかけずコートからも出さずに40本、50本と連続でとにかく全力でまっすぐに打ち合った。

力と力の勝負だった。年齢も立場もない。打ち負かしたほうが勝ち。
カーブもスローカーブもない。(テニスではロブといった。)

ストレートを全力で打って相手が力負けしたら乱打が終わる。
何本打ち合うのか数えてはいなかったがときに5分くらいエラーなく継続して打ち合った。コーチは数人と合わせて1、2時間くらい打ち合ったら、監督とちょっと話をしてすぐに帰った。そういうことが月に2、3回くらいはあっただろうか。監督はどういう意図とタイミングで彼を呼んでいたのだろう。

えのもと監督はいつものようにコート脇の日陰のベンチにひとり腰掛けタバコをプカプカさせてただその乱打を見ていた。
彼がコーチに練習を手伝わせたのはその乱打のときだけで、球出しなどの基礎的な練習のほとんどは自らのラケットで球を出してくれた。
えのもと監督の球出しは、落合博満のノックのようなコース際どく狙われたものでなくどっちに飛んでくるかもよくわからない無回転や逆回転の悪球だったのでぼくらは必死に追いかけた。

いま思えばボールの軌道をイレギュラーにするためわざとああいうへんてこなカットボールを出していたに違いない。
当時は監督はボール出しが下手だなーと思っていたが最近やっと気がつくようになった。

夢に監督がよく出てくる。
練習のあとに暗がりの中で話してくれたいろんな説教話が夢の中でははっきりと聴こえてくる。

「やるならやれ。やらんならやるな。俺は半端はひとっちゃ好かん。」

3日に1回、300回くらいは聴いた監督のこの言葉。帰り道に部員同志でも監督のものまねをして言い合ったのでもう何回聞いたか数えきれない。

よくもまあ同じことをこう何回も何回も話せるもんだと思っていたが、でもそれだけ言われるとさすがに米を主食にしてるくらい当たり前になった。
常勝チームの暗黙の合言葉だった。
「練習を一番やってる。だから優勝したんだ。わかっか? 次も優勝したいか? じゃあどうすっか?」

ヴォクの足は夢の中でも疲れと監督の顔を見る緊張から直立してガクガクだ。
安いという理由だけで長くつかってたマイラケットの3倍の値はしたであろう監督のラケットは説教中にケツバットを部員にして、折れることがあった。
そんなときぼくらは「ああ、監督は本気で怒ってるんだな」とシンとなった。
それはつばを飲むくらいの最高級のラケットで、誰かが怒られラケットが折れてしまうと他の部員たちまで全員反省した。
怒られるのも悲しいが、なによりラケットがかわいそうだったから。
ぼくたちはみなラケットを愛していたんだ。

夢を見る。
ときおり金縛りとなり苦しくなって目が覚める。
あー、こわい夢だったー。

でもまた監督の話が聴けた。
posted by 花波 ヒカリ at 06:01| コーチ・えのもと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月22日

コーチえのもと(12)

コーチえのもとはダブリュー(1年生、2年生とも県大会で団体優勝すること)を達成すると、帰りのマイクロバス(加治木のレンタカー屋で借りてた)を道の途中で突然とめて、ぼくたちを降ろした。

なんだろう。
そこは人気のないビーチだった。

砂浜があった。茜色の海には波はほとんどない。鹿児島にはそういうプライベートなビーチがたくさんある。


そこでぼくらはテニスシャツの上着を脱いで、泳いだり浮かんだり笑ったり泣いたり水をかけあったりした。コーチえのもとは少し高いところからいつものようにタバコをもくもくとさせてみんなの方を見ていた。


ヴォクは風呂か温泉にでも浸かるような感じで砂浜近くの浅瀬でまったりと静かに浮かんでた。太陽はほとんど沈み顔も見えないくらいになっていたが海水はまだ少しだけあたたかい。遊泳時間はものの10分か15分くらいだったろうか。海水を滴らせたままヴォクたちはバスに戻った。



「いない人は手を上げろ。
隣はおるか?
よし、帰っど。」



それがヴォクにとっての優勝の塩の記憶。



マイクロバスにはマイクがついてた。
ヴォクは頭の中で、マイクがついててコーチえのもとがたまに話すからマイコーバスというのだなーなどと考えながらまたうとうととしていた。

ヨネックスのレックスキングソフト17と中学生のぼくたちを乗せた、コーチえのもとの運転するバスは小さくて狭くてよく揺れてすぐに眠くなった。
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2011年06月28日

コーチ・えのもと(11)〜月桂樹〜

禁句をついはっしてしまう。
体調があとから悪くなったりするのも無関係ではなさそう。

でも仕方がないから禁句と思わないことにしようかな。

先日はこの塾を開いてはじめて「俺が言ってることわかんないの?」と普段は使わない一人称を使ってドナルドダックだった。大人気ない、おとなげない。

世界で一番長い英単語はなあに?の答えをいつも心に、生きよう、うん。

ところでヴォクがそれを禁句というのはそれを発すると実際に会えなくなるから。塾とはそういうところである以上、その言葉だけは発さないようにと心がけてはいるのだけれど(効果なし)。

コーチえのもと(中学時代の部活のくそ鬼監督)はすごかったなぁ。
「俺は半端はひとっちゃ好かん」といつも言っていたが「半端にするならやめろ!」とは一度も言わなかった。

逆にサボっても休んでもどこかに隠れてもローレルに乗って捜しに来た。なんで居場所がわかったのだろう。
20年以上昔の車にはGPS機能がついていたのだろうか。


(smiles、その英単語のつづりは距離にして1 mileあるらしい。)


ヴォクは社会人一年目、夏のボーナスで車を買った。
それが日産の、あの箱型の車だったことは言うまでもない。
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2010年09月18日

コーチえのもと

コーチえのもとはテニス初心者だった。独学でテニスを本に学び、自分の学んで体得したことをそのままヴォクらにためした。たまに棒読みしてたし。


彼の指導法は初心者のヴォクらにとってわかりやすいものだった。今思えば、コーチえのもと自身が独学で理解したことの中から少しずつ、そのエッセンスを強調して伝えてくれていたんじゃないか。

彼はテニス部に来る前に卓球部を県大会優勝させ、そして翌年からきたテニス部でヴォクらを優勝チームにした。
卓球もテニスも彼自身、一からのスタートだったし50の御年で、そもそも彼はテニスが下手だった。でも彼は練習の球出しの鬼だった。独自の振り方から繰り出されるその変化球はドライブがかからぬナックルボールで、ヴォクらをひどく苦しめた。

そうしてヴォクたちは言葉を通してテニスを理解しようとし、彼の繰り出す球を打ちながらイレギュラーなめちゃくちゃ回転に対応する術を学んだ。

俺はテニスが上手くない。お前たちは小学校時代にテニス未経験の素人部員だ。この中に天才は二人しかおらん。それでも練習して団体戦で優勝しようじゃないか。俺は半端はひとっちゃ好かん。

彼の話は毎日大体同じようなものでぼくらはお経のように暗唱していて、帰り道には彼のモノマネしながら暗がりをおしゃべりして家路に向かった。

(555字 つづく)
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2010年09月12日

卒業の日まで

コーチ・えのもとは365かける2回、ぼくらにテニスで教え、中2の終わり、転校で突然いなくなった。

盆も正月も雨の日も晴れの日も一緒にいたのに、たかだか転校で2度と会わなくなるだなんて。

コーチ・えのもとの転勤がなかったとしても国体までか卒業までで終わりだっただろうけれど。


30になればわかるからやりなさい!

毎日のように説教し続けた彼の言葉が今でも色々のときにヴォクに話しかけてくる。
あのときの言葉のまま、自分だけベンチに座りぼくらは30分立ちどおしで。アイモカワラズ暗闇から低い声で一方的にはなしかけてくる。

ああ、説教していた意味はそういうことだったか。30になっても35になっても説教を続けるためだったのか。

説教はボールがみえなくなると毎日あった。最高に無駄な時間だとばかり思っていたのだが。
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2009年09月16日

コーチ・えのもと

コーチ・えのもとの運転するマイクロバスはレンタカーだった。運転中に彼がなにかの話をするようなことはめったになく、行き先すらわからないことがあった。ぼくは体力を温存しておかないと身体がもたないので大体寝ていた。
ぼくらはそのバスにまだ暗いうちから乗り込んで、9時か10時に練習試合の相手の学校に到着した。練習試合の相手は県大会ベスト4以上の強いところに限られていた。

練習試合から学校に戻るバスの中では今度は疲れ果ててほとんどみんながまた眠っていた。

学校に戻った次の週からは相手チームの優れた打法を練習に取り入れた。

ラケットを縦に使うロブのうまい選手がいれば、その技を全員で練習した。
ライジングショットのうまい選手がいれば、その技を全員で練習した。

相手を研究する方法として、相手ができる打ち方は全部できるようにしておこうという訳のわからぬ練習方法だった。今思えば結局練習のナカミなんてどうでもよかったんじゃないか。

練習量で負けているわけがないことを全員一致でわかっていた。だから試合で負けるわけがなかった。

万一技術に差がなかったにせよ、声の大きさと気合いで負けていなかったので(声が小さければ休憩タイムで平手打ちをくらうだけ(笑))、大体の試合には負けなかった。たまに2番手か3番手が負けても団体として負けることは一度もなかった。

コーチえのもとはいつも練習の最後に話をしてくれた。
大体いつも同じ話だった。

優勝するために練習をやれ!半端にやるな。要するにそういう話の繰り返しだった。


中学からテニスをはじめた素人ばかりの集団だったが、2年生も1年生も理由がよくわからぬままに県大会で優勝するチームになっていた。

足も遅く、身体がもやしのヴォクが県大会で優勝?!
自分が一番驚いた。ヴォクはなにせテニスがうまくないことはわかっていた。吹奏楽をやめて5月にノコノコ見学にきたヴォクが秋の大会で優勝?
練習するだけで優勝できることにひどく驚いた。


きっとぼくらは他のチームよりほんの少しだけ練習時間が長く、ほんの少しだけたくさんのボールを叩いていたのだろう。ほんの少しだけたくさん。
posted by 花波 ヒカリ at 00:29| Comment(0) | コーチ・えのもと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月23日

えのもとみのるといふひと(10)

コーチ榎本は、テニス経験がなかったことは前回書いた。コーチ榎本はテニスを独学で本に学んでいた。軟式テニスの本を読んで何かを発見してはそれを僕たちに試した。一本足でケンケンしながらラケットを振らせたり(体重の重心移動の練習と言われた)、スマッシュするかわりに利き腕と反対の手でボールをキャッチさせたり(ボールの真下に入る練習と言われた)、スマッシュするかわりにボールにヘディングさせたりした(ボールを前にとらえる練習と言われた)。僕が一番怖かったのが、ネット前にたたされて監督が1メートルくらいのところから僕めがけてボールをたたきつけるのを壁のようにボレーで返す練習。ボールに攻撃されるめがねがぼくの鼻をつきさし、いたくてボール恐怖症になった。効果あるのか?とみんな帰り道には文句を言いながら帰ったので、部員はすこぶる仲がよかった。榎本監督を憎んでいたので、共通の(仮想の)敵が出来て部員がみんな仲良くなるようにコーチは考えたのだと思う。

コーチ榎本が他のどこの中学のテニス監督より徹底していたのは練習時間の長さであった。夏休みは朝6時に校庭でのランニング開始、ラジオ体操のほがらかな音にあわせてまったり身体を動かす子供や老人をうらめしくおもいながら上半身裸でグランドを走った。途中にダッシュが入るたびに息がぜいぜい言ってもう水を飲むこと以外頭に入らなくなる。コートに入る前に身体はグダグダになるのだが、そこでも水は飲めず、その後、ボールを使った練習が始まる。「疲れきったときのスイングには無駄な力が入らない、それを身体におぼえこませろ!」というのが口癖で、耳にタコができた。途中、日射病を避けるため坊主頭に水をぶっかけることが許されていたので部員達は隠れてそこで水を飲んでいた。今思えば榎本監督はきづいていただろうが水は飲むなよといつも言っていた。実際、大会の時になればわかることだが、水を飲んでしまうと一気に身体の動きが重くなる。疲れも回りやすくなる。水を飲まない身体づくりを彼はさせたかったようだ。練習は昼食休憩をはさんでそのまま夜7時近くまで集合練習が毎日あった(その後日が沈む瞬間までサーブレシーブの自主トレ)。休憩時はポカリスエットなんかを飲むのが精一杯で、疲れ果てて弁当もパンも口になかなか入らなかった。盆休みなどというものはなかった。そういえば塾に行く部員は1人もいなかった。時間があわないからいけなかったのだ。僕の場合はお金もなかったが。

コーチ榎本はそういう練習をさせ、才能も何もない偶然集まった僕たちをAチーム県大会優秀、Bチーム県大会準優勝というとんでもない集団に鍛え上げた。同校対決が県大会でできるなんて思っても見なかった。「30歳になったらわかるから気張れ」とかなんとか言われ続けて練習し続けたが、30歳をゆうにこえてからも、あの練習は何だったのだろうと考えさせられていた。

榎本監督が家庭も顧みず、365日練習をさせてまで、僕たちに体験させたかったことが、でも、今頃になって、だんだんとわかってくるようになった。「本気でやれば実現できる」そういうことなんじゃないかな。体力測定でも平均以下、走らせても特に速くもない。それでも県大会で優勝できる。ボールを100本たたいても全部相手のコートに鋭く返すことができるのは、繰り返しくりかえし、練習し、身体が覚えているから。練習した人には勝てない。才能がありそうな人間がそろったチームに対しても身体的には平均的な僕たちのチームが勝つことが出来たのは、練習量が勝っていて、ミスをしない。相手の力を利用して相手が強ければ強いほど速い球を返すことができる。それに練習量で負けているわけがないという確固たる自信(これだけは本当に全員が確信していた)があったので、試合でも根性もあった。相手チームより声も大きい、相手チームをにらみつける。色の黒さでまず勝っていた(大体強いチームほど真っ黒に日焼けしていた)。

あの頃からだ。与えられた条件で勝つことの喜びを僕たちは知り、努力は才能に勝ることを僕たちは実感したのは。大会の数と同じ数のメダルを取り続けることができると僕たちは信じるようになっていたし、実際にとった。金・銀のメダルが一番の宝物だった。

 

才能とか、能力とか、方法とかじゃないんだよね。独学で見よう見まねでテニスをはじめた集団が強くなったりできるのは努力なんだよね、といつしか僕たちは思っていた。

  「結局、量をやった人には勝てない」とか、僕がよくこのブログにも書いたりしているのにはコーチ榎本からのそんな教えが身体にしみついているというのがあるのだ。量をやっていると無駄がだんだんそぎ落とされていく。質から量は生まれないが、量は質をも生み出す。走ってはしって、打ってうって、叩いてたたいてとしているうちに、シンプルで美しいフォームに行き着くようになるものだ。ただきれいなフォームを見て真似ればうまくなるというものでもない。体格差だってある、身長差だってある、身体のつくりもみんな違う、自分にあったフォームをつくるとそれがまわりからは独創的で個性的にみえるものなんじゃないかな。そんなことを考えながら机に向かうヴォクなのです、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

コーチ・えのもと









ほなね。

posted by 花波 ヒカリ at 04:29| Comment(3) | TrackBack(0) | コーチ・えのもと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月05日

コーチ・イチロー

集中力の話の続きとして(「独学中毒の会」略してせるふ会員のshinnさんへの御礼として)。

(ベンチからフィールドに向かう際の)階段を上るはじめの一歩を左足にしてヒットを打ったら、次の打席も必ず左足から。打てなかったら、次の打席は右足に変える。そういうことを含めたさまざまの努力をして、記録を出してきた・・・・・・と。

な?やっぱりな?バットを地面に置かないとか、昼ご飯はカレーしかたべないとか、いろいろのイチロー伝説があるけど、やっぱり(いちろーなひと、(注)みかみ先生も一桜と書いていちろうです))いちりゅーの人は、常に「何か」を求めて工夫と努力をするんだよなぁ。

ぼくも、いい教材を見つけたらためすし、変わった教材があったらつかうし、良かったら徹底的に使い込むし、悪くなったら(もっといいのが出たら)そっちもためすし・・・、なかったらつくっていくし、定期テストや入試が終わったら終わる毎に編集していくし・・・、

世界は違うけど、いちりゅー同士、通じるところがあるんだね。うんうん(弟子に諭すように静かにうなずきながら)。やっぱ打席で集中するためにはその前からして違うんだよね。準備で決まるんだよね。授業が役に立つか否かも子供の普段の準備次第だしね。

って、NHKでやってたプロフェッショナルのビデオを東京のヒカリっ子からおくってもらったので早速見て、独り占めしたくないから早速紹介した(鹿児島のしんたさんも書いておられた)。

以上、たまには違うコーチより。
posted by 花波 ヒカリ at 02:31| Comment(1) | TrackBack(0) | コーチ・えのもと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする