2015年06月20日

セルフラーニングの向上(13) 「我武者羅に考える」 〜ガムと参考書を噛みながらREFLECTION〜

大学受験生を毎年まいとし見ていて思うことがある。
大学受験において、講義をいくら受けても成績が上がるということはおよそない。大学受験生に大事なのは自習の時間、練習の時間を確保することである。自習をやる、自分の手と頭を動かして考えてみる練習時間を作ること、暗記の時間を作ること、勉強はそこからはじめる必要がある。
だから中学生や小学生のうちから自習を上手にやれるように育てていきたい。
自習がうまい人になってほしい。


というヴォクの指導に関する考えは置いといて、ヴォクの好みについて書こう。

風船ガムがすき。
風船ガムはなぜおいしいのかと言えば噛めば味が出てくるから。
はじめのひと噛みのかたさに比して後々やわらかくなり終わりには風船さえ作れるようになる。
口の外で膨らましてはパンと鳴らし、口の中で膨らましてはタンと鳴らす。

参考書は風船ガムみたいなのがすき。
一見難しいことまで書いてあるように見え、読んでも意味はわからない。
壁みたいなかたさでそれははじめヴォクを拒絶する。(高校時代、物理の参考書を30冊くらい持っていた。
回り回ってはじめの頃に買った『前田の物理』と『親切な物理』の2冊のラインナップか、またはもう「くわしい物理の新研究」一冊でよかったかなと思うようになった。
中途半端にいろいろグルグルやるくらいならはじめからそういう参考書だけでよかった。)

一見難しいことまで書いてあるように見え、読んでも意味はわからない。
壁みたいなかたさでそれははじめヴォクを拒絶する。
でも何回目かに、他の本を経由して戻ってきたときにふとこりずに読んでみたときどういうわけかふわあと頭の中でその意味内容が膨らむことがある。
うんうんうんと首を上下させながらうなっている。

それはたしかに昔読んだときから同じ文言でそこに書いてあったような気がするのだが、今度はいささかも壁のようなかたい文章でなく、やわらかい毛布のようにヴォクの頭の中でザックリとほぐれている。

何度か読み返してもわからなかった事柄の周囲でぐるぐると同じところばかりをずっと回っていたようでありながら実は回り回って360度目には一層だけ上の方に進んでいる。悩んでいたものがパンとはじけ、こういうことだったのかと理解がらせん的に進んだような感覚を得る。いや一層どころではない。はじめの抵抗感がかえって納得度を増し二層も三層も階段を登ったような気分さえする。霧が晴れるようなとしばしば形容されるあの感覚が訪れた。

そういうガムみたいな本はわかりにくくしたくて難しいことをぐりぐるとまわりくどく書いていたのではない。複雑なことをごまかさずにストレートに書いていたのだ。だからかたい本になっている。

そういうことがあるのでかたい本にはあきらめずにReflectするのがいい。かたい本に向き合えば読み返すごとに味がある。我武者羅に熟考してわかったときの味はなかなか他では得られない。

ほなね。

plus 水挿ししていたチェリーセージに根が出ていた。マリアン姉さん、ありがとうございました。今までは土から抜いてみてはじめて確かめられるため、何回も見られなかったが、水挿しの場合はそこを通るたびに見えるのがいい。何回も根を見にいきたくなる。

何もまだ根がなくてもドキドキしたし根が出ていたら拡大して確認しようとしたが、凸レンズのような瓶と水が根の様子を大きくして見せてくれた。

土にそのまま挿しても根付くことがある強い花よ。
水の中といういつもと違う環境で苦しくはなかったかい。
あした雨がやんだら、やさしい土の中へ帰ることにしよう。

plus 最近、なぜか、メモ帳にメモりながら授業を受ける子が急に何人か現れた。急に見たこともない独特なノートを取り出されると気になって仕方がない。必死にメモされると話す速度を変更し戦場カメラマンのような発話ペースになってしまいがちではないか。

二番目に気になるのはなんと書いたのだろうかということ。
そしていちばん気になるのが、いま開いた前のページにはどんなことがメモされているのかということ。

それはいささかプライヴェットなことなので見せてとはかんたんに言わないがそれでも言うと、ちょっと待ってといった感じで先に見せてもよいメモかと確認したりしている。
さすがにわるいのでまたいつか見たいなあと言ってなかったことにする。



話を知識の木の話に戻そう。
参考書が、しかしどれだけ優れているにしても、自分で考えないうちは身につかない。

後出しじゃんけんとは自分だけ後から手を出すことだ。
ヴォクの場合は来年の分を何ヶ月も早く書いていることにして早出しじゃんけんということにしておこうか。
いやそもそも誰かとじゃんけんをしているわけでもなかった。

あまりに当たり前のことだが、数学や物理をやるのに人のやり方を真似ているばかりではなかなかうまくならない。

一定の理解の段階まで来たらそこから先は自分でできるのか確かめる練習や確認がどうしたって必要である。

高校時代、自分はここがわからず壁にぶちあたった。
わかりやすく解説してある参考書を読んでわかったような気になる。
わかたっようであるのだからできたと勘違いしていたのだが、いざ初見の問題を解いてみるとなかなか解けない。

原因は何ヶ月もたってようやくわかった。
ぶつかるべき壁にぶつからず、わかりやすい参考書の導きのままにわかっていたつもりになっていたのだ。「真似しかできないこのマネシンボ」とヴォクは自分をバカにした。

うまく飛ばしたり、たとえ話でごまかしたり、イメージだけで理由をはしょったりして難所を難題のままに示さない参考書の解説を鵜呑みにして、とそこまではそれはそれでよいのだが、肝心の、自分の手で考える、自分の頭で汗をかくという体験をしていなかったのだ。気づいて以降はくわしい参考書をわかるまで読み込み何度でも鉛筆を動かして考えるようになった。

たしかに答えを先に見たって構わないだろう。学習効率は受験勉強という時間制限のある場合、高いに越したことはない。わかるまでの時間は短くていい。
たしかにわかりやすい解説を読んでわかった気になるのもわるくない。
たしかにイメージを先につかんで現象をとらえたような感覚を得るのもまずくない。

しかし、それだけでは試験のとき、問題のただ中にいざ一人で放り込まれたときに右にも左にも動くことができなくなる。
手が動かなくなる。
脳は汗をかいたことがないのでただ無回転のまま同じところをぼんやりとながめたまままったく働いていないのだ。

数学や物理の難題では、たったの1つの数式を理解するのに考えても考えても1 ヶ月以上かかってしまうことなどいくらも存在する。
本当はそのままわからなかったがいったん宙づりにして先へ行く。

どうせそこには何度だって帰ってくことになる。未解決なのだから何度でも学習者の前に現れるたびに苦しめる。結局その難所をクリアしていなければ何回も何回もそれは現れて苦しめ続けることになる。もはやわかってしまう以外にそこを通過するすべがないことに気がつき、いよいよ集中してそのことを考えてみるがそれでもやはりわからない。
そんなことが多いのだ。

何冊調べたところで結果はあまり変わらない。表現などどの文献でも大方似たようなものだ。結局頼ろうとする、人に聞こうとしてばかりいる、わかりにくいぞと参考書や指導者のせいにしている自分の方に問題はあったのだ。

後から気がつけば何でもなかったようにかんたんに思えることが講義依存症の学習者にとってどれだけ難問に見えることか。
参考書を5冊調べ、10冊調べとする労力を自分で考えるという新しい方向に使うだけでどれだけ多くのことが会得できることか。

わかった気になったあと、自分でどれだけ練習して会得するか、そこが実力の差になる。
入試の出題範囲も問題もはじめから問題集に、過去問に全部載っている。
かたっぱしから自分で解いて自分なりの仕方で身につけていく、そういうことが新しいことを吸収する上でどれだけ重要か。

頼っても頼っても探しても周りばかりを見ているうちはどこにも答えなど見つからない。手ほどきを受けたら今度は自分流でそれをやってみるしかない。

「理解」から「会得」に至る過程というのは他人の真似を仕切ることとは紙一重のところで異なる。
どんなに師匠の技を真似たところで完全に同じ仕方で身につけることはできない。
会得するときは自分なりの仕方で、自分の限界のところを突破してぎりぎりところで知識が広がり繋がっている。

自分のいまいる限界点がAのところだとすると新しく身につきそうなBはその限界点のAから枝葉を伸ばしてどうにかこうにか身についていくようなものだ。

そこのAとBの間にいくら他人の技、美技をもってきたところでそれがCでありDであるうちはBを身につけるには至らない。

自分の限界地点Aから新しい思索を開始することだ。
あなたがいま立っている場所は、あなただけが立っていられる場所だ。
そしてあなたのいる場所Aから絶景の場所Bへたどり着く道はあなただけにしか見つけられない。

知識の木はたしかに万人に見えているものではある。
しかしその知識の木の真実を掴む方法は、それを真剣に考える人に対してしか示されていない。
ましてや他人がとった実だけを食べようとしているうちはいつまでたっても自力で新しい実が取れるようになどならない。

枝を見てルートを探ることだ。
今いる場所から次の場所へ行くにはどんな可能性があるのだろうか。
よく見たら次の足をのせるべき土台が見つかるかもしれない。

plus
光推薦独学図書

plus きょうの東大数学。
過去問30年分を終え、去年までやっていた京大と東工大の数学を再度やり直すことにした。
この子はいろんな解き方で突き進むのが好きで解答を4種類くらいつくってどれが速いか比べたりしている。
1問に2時間くらいかけているときもあるが道理で解法の選択眼があるのだろう。
次の東大模試がたのしみ。


posted by 花波 ヒカリ at 05:55| 考える帽子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする